【今泉定助】神道思想家の生涯と教え
こんにちは。今回のテーマは、神道思想家として知られる今泉定助についてです。
今泉定助は、明治から昭和にかけて活躍した国文学者であり、皇道と呼ばれる独自の国体論を展開しました。
彼の教えは、政治家や軍人、財界人などに多大な影響を与えましたが、戦時中は政府や軍の政策を批判し、発禁処分を受けたこともありました。
彼はどのような人物だったのでしょうか?この記事では、以下の内容についてお話しします。
- 今泉定助の経歴と基本的思想
- 今泉定助が主宰した日本大学皇道学院とは
- 今泉定助の著書や編纂書の紹介
それでは、早速見ていきましょう。
【今泉定助の経歴と基本的思想】
今泉定助は、1863年に仙台藩の家老片倉家の家中で生まれました。東京大学古典講習科を卒業後、共立中学校校長や城北中学校校長などを務めました。また、国学院や皇典講究所の講師として国文学や神道に関する研究を行いました。
彼は、国文学的神道論に加えて、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼びました。皇道とは、「天皇陛下を中心とする日本国民一体の精神」であり、「祭政一致」の原理に基づくものでした。彼は、皇道を国民の指針として普及する活動に尽力しました。
彼は、政治家や軍人、財界人などに人脈を広げ、日本を皇道精神に基づいて国家の再建をすることを勧告しました。歴代首相のほとんどが彼の教えを受けるほどの影響力を持っていました。
しかし、戦時中は、政府の海外神社政策や軍の政策などを手厳しく批判しました。彼は、「真正なる国体的道義に立つべき」であることを主張しましたが、そのために著書が発禁処分を受けたり、逮捕されそうになったりしました。
彼は、1944年に81歳で亡くなりました。「世界皇化」の四字が絶筆となりました。
【今泉定助が主宰した日本大学皇道学院とは】
今泉定助が主宰した日本大学皇道学院とは、1938年に日本大学内に設置された皇道の教授所です。
これは、時の日本大学総長山岡萬之助が、今泉に日大での講義を要請したことがきっかけでした。一般者も聴講可能な特別講座として始まりましたが、やがて正式な学院として発展しました。
皇道学院では、今泉定助が皇道の理論と実践を教えました。彼は、皇道を「日本国民の生活の根本原理」とし、「神道は日本人の生活そのものである」と説きました。彼は、日本人の精神や文化を理解するためには、古典や神話を研究することが必要だと主張しました。
皇道学院の講義は、日本大学の学生や教員だけでなく、政治家や軍人、財界人など多くの人々に受け入れられました。特に、日本大学会頭の古田重二良は、今泉定助の熱心な門下生であり、彼の教えを広めることに尽力しました。
皇道学院は、戦後に廃止されましたが、今泉定助の思想は、日本大学内に今泉研究所として残りました。今泉研究所では、今泉定助の著書や資料を収集・整理し、研究・出版・普及に努めています。
【今泉定助の著書や編纂書の紹介】
今泉定助は、生涯に100冊以上の著書や編纂書を出版しました。その中でも代表的なものをいくつか紹介します。
- 『皇道論叢』:今泉定助の基本的な皇道思想をまとめたものです。国体論や教育勅語の解釈、大嘗祭や大祓などの神道儀礼について詳しく説明しています。
- 『平家物語講義』:平家物語を国文学的に分析したものです。平家物語に登場する人物や事件を通して、日本人の精神や歴史を解き明かしています。
- 『故実叢書』:有職故実に関する典籍や図版を集大成したものです。全41巻168冊と絵図12帖からなります。宮中や神社などで行われる儀式や装束などについて詳細に記述しています。
以上が、今泉定助についての記事でした。
今泉定助は、神道思想家として日本人の精神や文化を探求し、皇道という独自の国体論を展開しました。
彼の教えは、多くの人々に影響を与えましたが、戦時中は政府や軍の政策を批判しました。彼は、「世界皇化」を目指して亡くなりました。
この記事では、今泉定助の経歴と基本的思想、今泉定助が主宰した日本大学皇道学院とは、今泉定助の著書や編纂書の紹介についてお話ししました。
今泉定助に興味がある方は、ぜひ彼の著書や編纂書を読んでみてください。彼の思想は、今の日本にも参考になるかもしれません。
それでは、この記事はここで終わります。最後までお読みいただきありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。さようなら。
コメント
コメントを投稿