【近松門左衛門】江戸時代の武士から町人になった浄瑠璃の天才

今日は、江戸時代の町人文化を代表する人物のひとり、近松門左衛門についてお話ししたいと思います。近松門左衛門といえば、『曽根崎心中』や『国性爺合戦』など、文楽や歌舞伎の名作を数多く残した浄瑠璃の作者ですが、実は彼は元は武士の出身でした。どうして武士から町人になり、浄瑠璃を書くようになったのでしょうか?また、彼の作品にはどんな特徴や魅力があるのでしょうか?この記事では、以下の三つの見出しで近松門左衛門について紹介していきます。

- 近松門左衛門の生涯と経歴
- 近松門左衛門の作品とその特徴
- 近松門左衛門の作品が今に伝えるメッセージ

それでは、早速見ていきましょう。


近松門左衛門の生涯と経歴


近松門左衛門は、承応2年(1653年)に越前国(現在の福井県)の武士・杉森信義の次男として生まれました。母は医師の家系で、越前藩主・松平忠昌の侍医だった岡本為竹法眼の娘・喜里です。幼名は次郎吉、元服後は信盛と名乗りました。兄弟には兄の智義と弟の伊恒がいます。出生地については諸説ありますが、現在は福井市か鯖江市とされています。

近松の父・信義は、忠昌の子・昌親が分知された吉江藩(現在の鯖江市)で藩主に仕えていましたが、寛文4年(1664年)以降に浪人となって越前を去りました。信義が藩を辞した理由は不明ですが、その後京都に移り住みました。

近松も両親や兄弟とともに京都で暮らしましたが、その詳細はほとんどわかっていません。ただし、近松が歌人でもあったことは、寛文11年(1671年)刊行の『宝蔵』という句集に収められた彼の句からわかります。

近松が晩年に書いた辞世文によると、彼は若い頃に京都で位の高い公家に仕えていました³。その公家が誰だったかは不明ですが、『翁草』という書物によると、正親町公通という人物だったという説があります。近松は公家から得た知識や教養を後々まで生かしました。

しかし、近松は公家から離れて浄瑠璃を書くようになりました。それがどうしてなのかはわかりませんが、近松は宇治嘉太夫(のちの宇治加賀掾)という人形浄瑠璃の語り手のもとで浄瑠璃を書き始めました。宇治嘉太夫は、延宝3年(1675年)に京都四条で人形浄瑠璃の一座を立ち上げ、近松の作品を上演しました。近松が宇治嘉太夫のために浄瑠璃を書き始めた時期は定かではありませんが、天和3年(1683年)に上演された『世継曾我』という作品が、彼の最初の作品とされています。

近松はその後、竹本義太夫という人形浄瑠璃の語り手とタッグを組みました。竹本義太夫は、貞享2年(1685年)に大阪道頓堀で竹本座という一座を起こし、近松の作品を語りました。近松は貞享3年(1686年)に上演された『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」を名乗りました。この名前の由来については諸説ありますが、近松寺という寺に関係があるという話があります。

近松は元禄5年(1692年)に大坂の商家・松屋の娘と結婚しました。この結婚は再婚だった可能性もあります。近松はこの妻との間に一男一女をもうけました。男子は多門といって絵師になりました。

近松は元禄6年(1693年)以降、歌舞伎の作者として京都の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書きました。この時期に書いた作品には『曽根崎心中』や『心中天網島』などがあります。近松は歌舞伎作者として学んだ技法や趣向を後々まで生かしました。

正徳4年(1714年)、竹本義太夫が亡くなりました。その後も近松は竹本座で浄瑠璃を書き続けました。正徳5年(1715年)に上演された『国性爺合戦』は大ヒットし、17ヶ月も続演されました。

享保元年(1716年)、近松の母・喜里が亡くなりました。同じ年、近松は摂津国川辺郡久々知村の広済寺再興に講中として加わりました。晩年は病気がちとなり、初代竹田出雲や文耕堂など他の作者の浄瑠璃を添削していました。

享保9年(1724年)、『関八州繋馬』を絶筆として亡くなりました。享年72歳でした。辞世文には「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿に仕
えて、浄瑠璃の筆をとり、今日に至る。この世の中には、何事も不思議なことがあるものだ。」と書かれています。

近松の墓は大阪市中央区の近松寺にあります。また、福井市や鯖江市には近松に関する記念館や碑があります。


近松門左衛門の作品とその特徴


近松門左衛門は、生涯に約150作もの浄瑠璃や歌舞伎の作品を書きました。その中でも有名なものは、『曽根崎心中』『心中天網島』『国性爺合戦』『冥途の飛脚』『女殺油地獄』『曾我兄弟曙草紙』などです。近松の作品は、以下のような特徴があります。

- 世話物と呼ばれる、現実的で人間的な話を描いたものが多い。恋愛や家庭問題、社会問題などを題材にしたものが多く、人間の情念や苦悩を深く掘り下げたものが多い。

- 心中物と呼ばれる、恋人同士が自殺する話を得意とした。近松は心中物を多く書きましたが、それは当時の社会情勢や風俗に影響されたものです。元禄期には心中が流行し、そのニュースが大衆に広まりました。近松はそのニュースを題材にして、心中する理由や背景を分析し、人間の感情や道徳を問いかける作品を書きました。

- 道徳的な教訓や風刺を含んだものが多い。近松は自分自身が武士から町人になった経験から、武士や公家といった上流階級に対する批判や皮肉を込めた作品を書きました。また、町人社会の不正や欺瞞も暴露しました。近松は自分の作品で社会改革を訴えるような姿勢を見せました。

- 語り手や役者と協力して作品を作った。近松は宇治嘉太夫や竹本義太夫といった語り手と密接に連携して浄瑠璃を書きました。語り手の声質や技巧に合わせて台詞や音楽を工夫しました。また、坂田藤十郎や初代市川團十郎といった歌舞伎役者とも協力して歌舞伎台本を書きました。役者の個性や演技力に合わせて役柄や演出を考えました。

- 芸術性と娯楽性を兼ね備えたものが多い。近松は自分の作品で文学的な価値だけでなく、観客の興味や感動も引き出すことを目指しました。そのため、美しい詩句や巧みな比喩だけでなく、驚きや笑いや涙も誘うような工夫をしました。

近松門左衛門の作品は、江戸時代の町人文化の粋を集めたものと言えます。彼は自分の時代や社会に敏感に反応し、人間の心理や感情を鋭く描き出しました。その作品は今でも多くの人々に読まれたり、上演されたりしています。


近松門左衛門の作品が今に伝えるメッセージ


近松門左衛門の作品は、江戸時代に書かれたものですが、今でも色あせない魅力があります。それは、彼の作品が普遍的なテーマや問題を扱っているからです。

恋愛や家族、友情や仕事、生きる意味や死ぬ覚悟など、人間が直面するさまざまな課題を描いています。その中で、近松は自分の考えや感想を率直に表現しました。彼は自分の作品で、人間とは何か、社会とは何か、道徳とは何か、芸術とは何かということを問いかけました。

近松門左衛門の作品を読むことで、私たちは自分自身や周りの人々、そして現代社会について考えるきっかけを得ることができます。彼の作品は私たちに対話や共感を促します。また、彼の作品は私たちに美しさや楽しさを与えます。彼の作品は私たちに感動や笑顔を届けます。

近松門左衛門は、300年以上前に生きた人ですが、彼の作品は今でも私たちと繋がっています。彼の作品は今でも私たちにメッセージを伝えています。それは、人間として生きることの喜びや苦しみ、希望や絶望、愛や憎しみなどを素直に表現することの大切さだと思います。


まとめ


この記事では、近松門左衛門について紹介しました。近松門左衛門は、武士から町人になり、浄瑠璃や歌舞伎の名作を数多く残した江戸時代の文化人です。彼の作品は現実的で人間的な話が多く、心中物や道徳物などが有名です。彼の作品は語り手や役者と協力して作られたもので、芸術性と娯楽性を兼ね備えています。

彼の作品は今でも多くの人々に読まれたり上演されたりしており、私たちに普遍的なテーマや問題を考えさせるメッセージを伝えています。

近松門左衛門は日本文化の宝です。彼の作品を読んだり見たりすることで、私たちは江戸時代の町人文化に触れることができます。また、私たちは自分自身や現代社会についても考えることができます。

皆さんもぜひ近松門左衛門の作品に触れてみてください。きっと素晴らしい体験ができると思います。

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